ネパールトレッキング4-12

アンナプルナサーキット

2023年5月19日21時20分ポカラのNGレストハウスにて記す。: ローカルバスでカロパニからポカラへと移動した。ロッジ近くの雑貨屋に8時前に行ったが、8時に来る予定のツーリストバスは来ない。8時40分まで待っていたらローカルバスが来たので乗った。満員であった。マルファからカロパニまで舗装だったので、このままポカラまでずっと舗装だと思い込んでいたが、カロパニを出るとすぐに未舗装になった。舗装区間はムクティナートからカグベニまでとマルファからカロパニまでであるが、全て歩いたことになる。タトパニを越えて、ベニを越えて、かなり行ったことろまでは未舗装だった。未舗装の状態の悪いところが多々あり、強い揺れを感じた。一度、体が跳ねて落ちた時に、左の脇腹を座席の手すりで痛打し、おそらく肋骨にヒビが入ったと思われる。しばらく痛かった。1時間ほど走るとバスが動かなくなった。工事のために通行時間を規制しているようだ。1時間ほど待っていると通れるようになり、しばらく走り、11時に昼食休憩。ダルバートを頼んだが、ローカルバスなのでネパール人向けで、辛いので、水を余計に飲んだ。なお、ネパールの食堂には水入りのペットボトルは置いてあるが、コップは置いていない。観察していると、ネパール人はペットボトルに口を付けないで飲んでいる。口を付けて飲むのはNGだと思われる。11時半に出発し15時半まで休憩なし。トイレを我慢するのが大変だった。悪路なので揺れるたびに膀胱が圧迫された。ポカラの手前から時々雨が降っていた(ポカラはすでに雨期に入っていて、翌日は日本では滅多に見られないような、話し声が聞こえなくなるほどの豪雨が数度あった。このような豪雨が続くと洪水になりそうだが、豪雨は短時間で止む。)。17時ごろポカラに着いて、レイクサイド北部のNG Rest Houseまで歩いて行った。NG Rest Houseは1983年にウレリで会ったデビのファミリーが経営していて、4部屋しかない。コロナが収束して客が戻っているとの聞いたが、今回は私のために部屋を開けていただいたようだ。

5月20日 デビ、デビの甥っ子たち、チャンマティ(1983年にウレリで会ったもう一人の当時の少女)とレイクサイドでピザを食べた。かれらはピザが好きである。

5月21日 バスでカトマンドゥまで移動 幹線道路なのに、道はほとんど舗装されておらず、揺れが激しかった。車酔いになった。どうして、車があまり通らない、ムクティナートからカグベニまでとマルファからカロパニまでが舗装されているのか不明。

5月22日 カトマンドゥで土産(香辛料、紅茶など)を購入。今回はネパール滞在が3週間近くと長いので、日本食が食べたくなった。「絆」は移転していて見つけられず、「和(なごみ)」でかつ丼を食べた。日本で食べるのと変わりはなかった。クリームコロッケ、大根おろし、つけもの、スイカなど小皿が全部で6つもついていて、510ルピーはお得だと思う。オーナーはネパール人の兄弟で、父親が日本人から料理を教わったとのこと。二人とも日本に行ったことはないが、日本語の会話ができる。醤油の香りに覚えがあったので(醤油は日本製でもメーカーによって香りが異なります)、聞いてみたら、日本の某メーカーのシンガポール工場製品とのこと。1L800ルピーもして高いが、日本ではいくらだと聞かれたので、300円くらいだと答えると、うらやましそうにしていた。

5月23日 マレーシア航空でクアラルンプールを経由して成田に向けて出発。空港には出発の2時間前に着いたが、何らかのトラブルがあり、建物内に入れない状態で、入り口に人が溢れていた。ほどなくトラブルが解消したようだが、このトラブルで出発が1時間くらい延びた。このようなトラブルはネパールではしばしば起こるので、冷静に対応するのがコツである。カトマンドゥからクアラルンプールまで隣の席に座っていた3人組のネパールのお姉さんたちは、仙台で働きながら大学で環境の勉強をすると、片言の日本語(カトマンドゥでネパール人の日本語教師から5か月くらい教えてもらった)で話していた。技能実習生なのかもしれない。

土砂崩れの修復工事(?)のため、1時間ほど待たされた
NG レストハウスのダルバート

デビ(真ん中)、甥っ子たち、チャンマティ
NGレストハウスの人たちと
和(なごみ)のかつ丼
カトマンドゥのアサンチョーク。右は香辛料店

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